8月15日 終戦記念日
2007/08/15 21:51
今日の網走の最高気温は34度!今年の最高気温更新でした。
夏でも冷涼な根釧地方でも釧路30度、根室32度とか。
予報では明日は一転、最高気温19度とのことなのでこの暑さから開放されそうです。

今日は終戦記念日。上の写真、何だか分かりますか?
トーチカです。トーチカとはロシア語で「点・地点」を意味しますが、コンクリート製の小さな防衛陣地です。
このトーチカが網走でも8箇所確認されています。
網走のトーチカは1943年から作られましたが、当時の日本軍は、アリューシャン列島のアッツ島を制圧した米軍は千島列島に沿いに南下、知床岬方面から攻めて来ると考えていたのではと言われています。
この写真は藻琴川近くの海岸にあるものですが、国道244号とJR釧網線が並走している所で、網走から斜里に向かうと、列車からも車からも藻琴川を渡ってまもなく左側に見えます。
8箇所ある中ではここが一番見やすいのではと思います。
先日図書館でこの件について調べていたら、ウチのすぐ近所にも2箇所ある事が分かり、早速見に行きましたが、草木に覆われた中にコンクリートの塊らしきものが見えたものの、はっきり確認する事はできませんでした。
雪が降り始める頃にまた見てみたいと思っています。

そしてこの写真、「網走空襲の碑」です。
網走市民以外にはあまり知られていないと思いますが、終戦の1ヶ月前、網走に空襲がありました。
1945年7月15日午前10時頃、知床方向から4機の米軍機が襲来、空襲が始まり、15名の方が亡くなりました。
この「空襲の碑」は現在の網走小学校裏の防空壕跡にありますが、ここでは6名の方が亡くなりました。
当時、網走、清里、常呂の農家から召集された17〜18歳の青年達が米軍の上陸に備えてここで訓練していましたが、空襲警報によって校舎裏の防空壕に避難したものの、校舎を狙って逸れたロケット弾が防空壕直近の樹木に当たって爆発、6名の若い命が失われたのです。
他には、台町の防空監視哨に勤務していた1名の方が機銃掃射により亡くなりました。
網走沖では操業していた漁船が機銃掃射を受け、5名の方が亡くなりました。
網走から斜里に向かっていた釧網線の列車が北浜駅を発車して数分後、原生花園にさしかかったあたりで機銃掃射を受け、乗客の1歳のあかちゃんが亡くなりました。
釧網線の古樋(フレトイ)駅(現在の浜小清水駅)が機銃掃射で攻撃され、助役として勤務していた25歳の方が亡くなりました。
網走空襲ではこの14名の方が亡くなったとされ、氏名も確認されていますが、他にも常呂で漁船員1名の方がこの空襲の際に機銃掃射で亡くなっています。この方は未だに身元が確認されていないそうですが、この方も入れて、網走空襲の死者は15名とするべきという説もあります。
旅行で訪れる方々の多くは北海道と太平洋戦争というものは北方領土問題を除くと、あまりイメージ的に結びつかないのではないでしょうか。
しかし終戦1ヶ月前の7月14〜15日は網走以外にも北海道各地に空襲があったそうです。
重い話になりましたが、終戦記念日と言う事で太平洋戦争と網走について最近調べた事などを書いてみました。
夏でも冷涼な根釧地方でも釧路30度、根室32度とか。
予報では明日は一転、最高気温19度とのことなのでこの暑さから開放されそうです。

今日は終戦記念日。上の写真、何だか分かりますか?
トーチカです。トーチカとはロシア語で「点・地点」を意味しますが、コンクリート製の小さな防衛陣地です。
このトーチカが網走でも8箇所確認されています。
網走のトーチカは1943年から作られましたが、当時の日本軍は、アリューシャン列島のアッツ島を制圧した米軍は千島列島に沿いに南下、知床岬方面から攻めて来ると考えていたのではと言われています。
この写真は藻琴川近くの海岸にあるものですが、国道244号とJR釧網線が並走している所で、網走から斜里に向かうと、列車からも車からも藻琴川を渡ってまもなく左側に見えます。
8箇所ある中ではここが一番見やすいのではと思います。
先日図書館でこの件について調べていたら、ウチのすぐ近所にも2箇所ある事が分かり、早速見に行きましたが、草木に覆われた中にコンクリートの塊らしきものが見えたものの、はっきり確認する事はできませんでした。
雪が降り始める頃にまた見てみたいと思っています。

そしてこの写真、「網走空襲の碑」です。
網走市民以外にはあまり知られていないと思いますが、終戦の1ヶ月前、網走に空襲がありました。
1945年7月15日午前10時頃、知床方向から4機の米軍機が襲来、空襲が始まり、15名の方が亡くなりました。
この「空襲の碑」は現在の網走小学校裏の防空壕跡にありますが、ここでは6名の方が亡くなりました。
当時、網走、清里、常呂の農家から召集された17〜18歳の青年達が米軍の上陸に備えてここで訓練していましたが、空襲警報によって校舎裏の防空壕に避難したものの、校舎を狙って逸れたロケット弾が防空壕直近の樹木に当たって爆発、6名の若い命が失われたのです。
他には、台町の防空監視哨に勤務していた1名の方が機銃掃射により亡くなりました。
網走沖では操業していた漁船が機銃掃射を受け、5名の方が亡くなりました。
網走から斜里に向かっていた釧網線の列車が北浜駅を発車して数分後、原生花園にさしかかったあたりで機銃掃射を受け、乗客の1歳のあかちゃんが亡くなりました。
釧網線の古樋(フレトイ)駅(現在の浜小清水駅)が機銃掃射で攻撃され、助役として勤務していた25歳の方が亡くなりました。
網走空襲ではこの14名の方が亡くなったとされ、氏名も確認されていますが、他にも常呂で漁船員1名の方がこの空襲の際に機銃掃射で亡くなっています。この方は未だに身元が確認されていないそうですが、この方も入れて、網走空襲の死者は15名とするべきという説もあります。
旅行で訪れる方々の多くは北海道と太平洋戦争というものは北方領土問題を除くと、あまりイメージ的に結びつかないのではないでしょうか。
しかし終戦1ヶ月前の7月14〜15日は網走以外にも北海道各地に空襲があったそうです。
重い話になりましたが、終戦記念日と言う事で太平洋戦争と網走について最近調べた事などを書いてみました。
